壺草苑

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コラム

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第3回日本の藍染 その2
2019/1/01

今回は室町以降の藍染、そして”ジャパンブルー”の由縁をお話しします。

 

室町〜江戸のころ、灰汁発酵建て(あくはっこうだて)と呼ばれる手法が確立されました。

これはそれまでの藍染に革新を巻き起こし、

現在に至るまで、天然藍における最もメジャーな手法として引き継がれることとなります。

 

まず蓼藍の葉を発酵させた蒅(すくも)と、木灰から取る灰汁(あく)、石灰、その他に糖分となる日本酒などを用います。

 

この手法の大きな成果として、

蒅はある程度保存がきくため、それまでは葉の茂る時期にしか染められなかった藍染が年中行えるようになりました。

 

さらに、これはとても画期的なことなのですが、麻や木綿を染められるようになりました。

意外なことに植物染料のほとんどが、絹はよく染まりますが麻や綿のような植物繊維の染めには向いていません。

しかし江戸の世は身分制度がある時代、

庶民が絹の衣服を着ることは禁じられていました。

そんな中、藍だけが麻や綿によく染まったのです。

 

そうして綿の栽培が普及すると共に藍染めの需要はとても大きいものになりました。

町には藍染屋、いわゆる紺屋がひしめき合い、皆がこぞって藍の着物を着ていたようです。

 

そんな江戸の人々を目にしたイギリス人の化学者アトキンソンが、驚きと共に記した言葉があの

“ジャパンブルー”

というフレーズです。

 

天然の藍染で溢れた街だなんて、いったいどんな色彩の世界でしょう。

一度でいいからこの目で見てみたい光景ですね。

 

こうして隆盛を極めた藍染ですが、やがて明治に入ると近代化の波が訪れます。

次回はそのあたりのお話しをします。